第17回 学習データセットの権利保護

AIの品質問題点をソフトウェア技術の観点から解説する
中島 震(国立情報学研究所 名誉教授)
中島先生は、放送大学大学院の情報学プログラムの中で「ソフトウェア工学(‘25)」を担当されています。先生の講義ではソフトウェア開発を工学的に行うためのプロセスや手法、品質や生産性、進化などに関する技術について学べます。ソフトウェア開発で生じる問題について学び、開発のプロセスに沿って問題点を整理し、問題解決への技術を理解していきます。
本記事では、ソフトウェア工学が専門で、「形式手法やソフトウェアテスティングの技術」「機械学習を対象としたAIリスクマネジメント」を研究されている中島震氏へのインタビューをもとに作成しています。
第16回ニュースレターでは、第11回から全6回に分けて中島先生に解説いただいた、著作物やパーソナル情報をモデル訓練に用いる際に生じる問題の最終回として、学習データ利用時に注意を要するパーソナル情報について、基本的な考え方を含めて解説いただきました。
では、学習データの集まりである学習データセット自身は著作物になるのでしょうか。第17回となる今回のニュースレターでは、学習データセットの「外身」の権利保護について考え、解説いただきます。
第17回 学習データセットの権利保護
データの集まり
絵画の真贋を判定する識別AIから大規模言語モデル(LLM)に代表される生成AIまで、さまざまなAIがあります。共通することは、学習データの集まり(学習データセット)をモデル訓練に用いることです。性能の良い高度なAIモデルの開発では、学習データセットの工夫が重要だということがわかっています。
識別AIは教師あり学習の方法で、個々のデータに正解ラベルを割り当てて構築した教師データセットを整備します。LLMでは、インターネットなどからテキストを収集し、事前処理を施した後、モデル訓練に用います。そして、タスク実施例を教師データセットとして整備し、インストラクションチューニングを行って、LLMの有用性を向上させます。
学習データセットの構築・整備には多くの作業工数を必要とします。第3者に無断利用されないように、学習データセットの作成者・保有者は自身の権利を主張するでしょう。フリーライダー対策です。
さて、今回は、学習データセット自身に着目した話題です。構成要素になっている個々のデータに関する権利の問題は、著作物・パーソナル情報の場合に分けて、既に考えてきました。次項で紹介するデータベースも情報の集合物に関する議論です。注意してください。
データベース著作物
データの集まり(情報の集合物)は、百科事典のような「編集著作物」として、著作権法上の保護対象になることがあります文献[1]。IT関連では、データベースが「情報の選択又は体系的な構成」に創作性がある場合に「編集著作物」になります。アプリケーションプログラムが目的に合わせて効率良く検索できるようにした工夫が大切で、たとえば、関係データベースのテーブル構成や主キーのデザインなどに創作性があるとします。
データベース構築には多大な工数を必要としますが、「体系的な構成」に創作性が認められない場合、著作物になりません。一方で、フリーライダーを許容すると、質の高いデータベース開発の意欲がそがれます。そこで、欧州の著作権指令では「質的・量的な投資」に着目して「sui generis権」を認める考え方を示しました。現状、権利保護の標準的な方法になっているわけではありません。
技術コミュニティの実践
学習データセットは、「体系的な構成」というより、単なる「データの集まり」とみなされることから、著作権の対象にすることは難しいです。現状のビジネスでは、当事者間の契約で、学習データセットを利用許諾するようです。
学習データセットは、AI技術の発展で、重要な役割を果たします。そこで、研究活動や先進技術開発を担う技術コミュニティでは、学習データセットをオープンソース化する動きがみられます。利用許諾(ライセンス)の条件は多様ですが、従来のオープンソースソフトウェア(OSS)に準じた考え方に立ちます。技術革新に寄与することを目的として、学習データセットを提供するというものです。
データセットの取引
最近のフィジカルAIの開発では、学習データセット構築整備の重要性が、ますます大きくなっています。LLMは自然言語処理の基盤モデルで、自然言語の理解と生成が目的でした。この基本的な機能を活用して、対話型チャットボットなどを実現しました。
ヒト型ロボットのフィジカルAIでは、歩いたり、走ったり、ダンスしたり、物を運んだり、また、アイロン掛けした洋服をたたんだり、卵を割ったり、日常の生活空間で私たちが行う多様なタスクの代行が期待されます。姿勢を保つといった基本的な動作は共通する一方、タスクごとに適切な学習データセットが必要になりそうです。
基本的なタスクの学習データセットは共通ですから、オープン化が期待されます。一方、必要に応じて特殊なタスクの学習データセットを構築するでしょう。工夫して作成した学習データセットそのものを「商品化」したいというニーズから、学習データセットの流通を活性化しようと「データ取引所」が生まれます。
データ財産権
データ取引を行うには、売主が正当な権利者であることを示す必要があります。ところが、学習データセットは、無形物であって所有権の移転という考え方に合わないですし、また、著作権の対象ではないです。何か新しい考え方が必要かもしれません。そのひとつとして、データ財産権を紹介します。
中国では「データ財産権登記ガイドライン」のパブリックコメントを2026年4月に募集しました。2023年から、北京や上海をはじめとする17の地方政府が実施してきた「データ財産権登記」を中国全体に広めるものです。その後、2026年7月にガイドラインが公開されています文献[2]。
データ財産権は、学習データセットの保有権・使用権・経営権(ビジネス利用)を含みます。申請が認められると登記証書が交付され、登録データセットが自身の財産であることの証明として使えます。北京市での試行では、ある学習データセットの無断使用を差し止める訴訟で、原告の主張を裏付ける証拠として採用されました。現在、中国全体で約80のデータ取引所があり、登記証書をもとに取引を行っているということです。
参考文献
[1] 作花文雄:第Ⅱ部第5章 データベースの著作物、詳解著作権法[第6版]、ぎょうせい (2022).
[2] 国家数据局综合司关于印发:《数据产权登记工作指引(试行)》的通知、国数综政策〔2026〕35号(2026.7)
次回の予告
中島先生の第18回ニュースレターでは、今、注目を集めているオープンソースAIについて、従来のクラウドサービス(API利用)との相違を解説いただきます。どうぞお楽しみに。
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中島先生の著書はこちらです
■「AIアルゴリズムからAIセーフティへ」
中島 震 (訳) (原著:O.サントス, P.ラダニエフ)
丸善出版 2025年3月 (ISBN: 9784621310328)
■「AIリスク・マネジメント」
中島 震
丸善出版 2022年12月 (ISBN: 9784621307809)
■「ソフトウェア工学から学ぶ機械学習の品質問題」
中島 震
丸善出版 2020年11月 (ISBN: 9784621305737)